〜〜〜徒然ヨット〜〜〜
以前連載していた「徒然ヨット」ですが、亡霊のように一時復活である。何回かに分けて、「知ってるつもりの船の用語」や「キャビントーク」等、徒然なるままに書いてみたい。
P.94 ELLE
第1回 外国のヨットクラブの構成について
第2回 ケイコの思い出
第3回 天神祭り奉納ヨットレース
第4回 月の運行と潮流 Part1
第5回 月の運行と潮流 Part2
第6回 「ポートとスターボード」
第7回 船磁石(ふなじしゃく)
第8回 「おもかじ」「とりかじ」 
第9回 操船号令「スターボード」「ポート」について
第10回 タイタニックの悲劇

■第10回 タイタニックの悲劇
タイタニック号について

高さ:53m
全長:268m
総重量:46,328t
最高速度:23ノット
製造費:7,500,000ドル(日本円換算約9億円)
製造年数:3年間
最大乗客、乗員数 3547名

T)<事実経過>
1.出航
1912年(明治45年)4月10日(水)当初の予定より1ヶ月遅れてサザンプトン出航〜シェルブール〜クイーンズタウンを経てニューヨークへ

2.運命の日の海象等
4月14日(日)天候 快晴 気温0℃ 水温0℃
月齢26.1 無風 波高0.5m
速度 22.5ノット

3.衝突時間
2340

4.沈没海域
北緯41度46分 西経 50度14分
沈没時間15日0220

5. 最初の救助船カルパチア号の到着
15日0410

U)<不運の連鎖>
1.完成が当初の予定より1ヶ月遅れた。

タイタニックの姉妹船、オリンピック号の2度にわたる事故により(両方ともスミス船長)その修理のために作業員が奪われた為である。
当初予定の2月に完成し、1ヶ月前の3月中旬に出航していれば、流氷の量は少なく氷山との衝突事故の発生確率は少なかったと思われる。ただ、当時一般的にこの様な大型船が種々の理由により1ヶ月以上予定より遅れる確率を考えると、当時の建造の様子としては工期が間に合うことは稀であったという史実がある。


2.出港時に1時間出航が出遅れた。

出航が遅れた原因は、港湾内でタイタニックが起こした引き波により他船舶と接触事故を起こしそうになった為である。これは引き波によりタグボートと接触しかけた為であるが、同様の事故は、オ号でも起こっており、しかも船長は、前述のようにスミス船長である。
峡水道でタ号程の船がスクリューを回すとその水流により小さな船は舵が効かなくなるのは承知のことである。何度も彼は同じミスを犯しているのである。
この直前の1時間のロスが無ければ、タイタニックの悲劇は紙一重で無かったであろうと、考えられる。
理由1 氷山も当然移動しており、1時間のずれがあればその大氷山がタイタニックの進路正面にあった確率は限りなく0%に近い。
理由2 事故が起こった夜は、月齢が26.1で新月に近い状態であった。月の運行を鑑みるに、1時間早ければ現場付近はもう少し明るく、見張り番がもう少し早く氷山を発見していたかも知れない。
もし全ての出来事の発生が1時間早まっていたならば、同じことが起こっていた確率は限りなく0%に近いと思われる。また、若し、衝突があったとしても、救難無線を発した時刻が夜中の12時前になり、すみやかに周辺に存在していた船舶が救助に駆けつけることが出来たであろう。

3.当日は快晴で、同海面付近はいわゆるべた凪の状態であった。(*1)

結果1)そのため、タイタニックは、全ての釜を焚き最高速度22.5ノットの快速航行をしていた。
結果2)適度な波は氷山の発見に役立つのであるが、べた凪のため氷山の発見が遅れた。
もう少し波高があれば、氷山の周りに白波が立ち見張り番の発見はもう少し早かったものと思われる。また、少し波高があれば、最高速度で航行できなかったかも知れない。また出来たとしても、速度は落ちていたものと思われる。よって氷山と真正面の邂逅は無かったであろう。


4. タイタニック号は処女航海での大西洋横断の最短記録を目指していた?(*2)

これには、異論がある。当時北太平洋を航く船では、最短時間が競われていた。その栄誉ある船には「ブルーリボン賞」が贈られていた。ただ、タ号はスピードよりもその豪華さを売り物にしていた。ただ、船主が同乗していたこと、スミス船長のラスト航海であったことを考えると出来る限り最短で航海しようとしていたであろうことは推察できる。
しかし、なぜ暗夜に暴走とも言えるフルスピードで航行したのか?
その、真の理由はスミス船長の死により謎である。
スミス船長は名船長であったか?
既述のように、スミス船長は数々の事故を起こしている。タ号は、オ号と、ブルタニア号と3姉妹船の2番目の船である。その船体は当時の最大船を遥かに凌駕し、その操船においても全て彼の未経験のことであった。即ち「不慣れ」ということであるが、何度も同じミスを繰り返したり、暗夜に猛スピードで運行したりしているこの船長の技量には大いに疑問符が付く。後述の無線電報の軽視といい、この船長は、時代遅れの船長であったといえるのではないか。しかし、彼は何故か一等船客等の所謂富豪連中に人気絶大だったのである。それは、彼自身が裕福であり、その風貌もいかにも船長然としており彼の航海に合わせて旅程を組んだ上流奥様方も多かったのである。


5.無線装置が、出港後に故障した。

なぜ、他船の7度にわたる氷山の警告をもとに減速の対応をしなかったのか?
なぜ、大事な警告電報が船長の元に届かなかったのか?
確実に船長に届いたのは最初の2通だけと言われている。
結果として、全て無視し(最後の通信警告には「黙れ!」とまで言っている)高速航行を続けた。個々についての詳細は、多くの直接関係者の死亡により、明らかにされていない。
事故の僅か10数年前、1896年にイタリアの天才マルコーニによって実用化された無線電報は、運行に関しての重要な情報を得る手段というより、個人の連絡のためという役割の方が多きかった。それは1898年世界最初に船舶に設備されたのがイギリスの王室専用ヨットであったことからも分かる。その後事故当時には、数百艘の大西洋を航く船舶に搭載されるようになり、航海における情報源としてその立場を固めつつあったが、他の船舶の多くがそうであったようにタ号においても、まだまだその存在はまだまだ重要視されているものではなかった。無線室は、ブリッジ後方に位置していたもののフィリップ、ブライド、2人の無線士達はマルコーニ社からの派遣社員たちであり、司厨部に属し、その地位も同クラスであった。
そして、タ号が受けた最後の警告無線時には無線室は個人客からの無線に忙殺されていたのだが、この理由は、事故数日前に無線機が故障し溜まった電報処理に追われていた為である。この無線機の故障が無ければ、もう少し冷静に、無線士達は、このタ号を救ったかもしれない電報に、耳を傾けていたかもしれない。

以下は、タ号に届いた7つの無線電報である。

警告無線 受信時間 発信船

1

14日 0900

キャロニア号

キャロニア号(キューナード社) スミス船長自ら返答。

2

同  1342

バルティック号

このメッセージはイズメイ氏(※1)に渡されたが、船長が午後7時15分に返すように言うまでイズメイ氏が持ったままになっており、それで船員に知れるのが大幅に遅れている。

3

同  1345

アメリカ号(ドイツの定期船)

ワシントンDC米国海軍水路局経由で夕方、この情報を受信した。しかし、この情報はブリッジには届けられなかった。

4

同  1930

カリフォルニアン号

アンティリアン号宛の氷山警告のメッセージを傍受した。このメッセージは確実にブリッジに届いたかどうかは不明。

5

同  2140

メサバ号

この船が示してきた氷山の場所はまさしくタイタニック号の航路と重なるものであった。このメッセージも確実にブリッジに届いたかどうかは不明(※2)。

6

同  2230

ラッパハノック号

この船自身が氷のため船の操舵機を損傷。タイタニック号に信号灯で警告してきた。タイタニック号はこの警告に同じく信号灯で返礼している。

7

同  2255

カリフォルニアン号

タイタニック号の通信士はこの時、レース岬との交信中で、カリフォルニアン号の警告を「うるさい。黙れ。」と返答している。(※3)


※1・・・イズメイ氏。その時のホワイトスターライン社長即ち、
タイタニック号の船主。この人物は船主でありながら、比較的早い段階で救命ボートで脱出しているため、生還後も死ぬまで世間の非難を受ける生涯を送った。

※2・・・メサバ号からの警告(二等航海士ライトラーの証言)
二等航海士ライトラーは生還し、1935年に出版された『タイタニック号とその他の船舶』という本の中で、このメサバ号からの警告をタイタニック号の通信士が、他の通信業務に忙殺され、ブリッジに報告する事を大幅に遅延させたのが、氷山衝突の最大の原因だと証言している。

*3この時忙殺されていた無線は上級客の個人電報で内容は
「本日晴天。」「船酔いなし。」「ポーカーで勝った。」等々であった。


6.船内に5個の双眼鏡があったにも拘わらず、何故か当夜の見張り台には双眼鏡が無かった。(*3)

当夜の見張り台には双眼鏡が無かったのは、謎の1つである。後の証言ではサザンプトン出航時には確かに双眼鏡があったが、出航後は誰も見たものがいない。見張り番から何度も催促があったようであるが、結局当夜には無かったのである。
ただ、前述のように新月の夜に双眼鏡が実際の事故の際に役立ったかどうかとの証言が後でなされているが会社側の人間であり、余り信用はできない。ただ氷原の中救助に向かったカルパチア号は、見張り番よりブリッジが全ての氷山を見つけ出し現場海域まで到達した。当夜のような晴天暗夜では水平線に重ねて星空の中に浮かぶ氷山を見つけられやすい少し目線が低いブリッジのほうが適しているのかも知れない。カ号の船長は現場到着後振り返り其の氷山の多さに愕然としたと言う。かれは「あの時は、自分以外の何者かが操船していたと思う。」と語った。しかし、見張り番にとって命とも言える双眼鏡を手元に置かないでというのは不思ワッチするとは不思議なことである。その見張り番は生還したものの晩年に自殺している。双眼鏡は、後年の探索で、海底から発見された。


7.「衝突、その時」、最悪の回避操作をしたかも知れない。

回避操作として、次の4つのパターンが考えられる。
1.そのまま直進、
2.減速し直進、
3.減速し舵を切る、
4.減速せず舵を切る。 
「1.」の場合は論外。大破して間もなく沈没したであろう。
「2.」の場合は舳先の少破で沈没を免れたかも知れない。
「3.」の場合は氷山をなぞるように接触し、多数区画の破損が起こり沈没する。
「4.」の場合は旋回性能が確保されているため衝突を免れたかも知れない。
まさしく、タイタニックはこの3のパターンを描いたのである。


8.氷山との衝突の後、速やかには救難無線を出さず遭難後34分後、午前0時14分になって初めて救難無線を発した。

当時の通信係の勤務体系としては、午前零時以降の業務が行われていないことが通常であった。タイタニック号の衝突時いちばん近くにいたのは19海里の距離にいたと思われるカルフォルニア号であるがカ号の無線もまたこの時間には切られていた。ただ伏線として7回目(最後の無線であり、カルフォルニア号からなされた)の氷山の警告無線をタイタニック号の通信士が無視し、怒鳴ったことがあると思われる。カ号の無線士はこの後0000に無線のスイッチを切り、不貞腐れてベッドにもぐり込んだと後に証言している。
現実には、58海里の距離にいたカルパチア号が救難無線を受信し救助に駆けつけたのである。カ号が、タイタニック号の無線を受信して直ちに救助に来た場合は、沈没の約40分前に到着する事が可能であった。よって、タイタニックが2340衝突時直ちに無線を打電していればカ号は計算上、沈没1時間14分前(衝突後1時間26分後)に到着していた。


9.カ号が遭難信号灯の意味を理解しなかった。

午前零時44分に、信号灯を打ち上げ、カリフォルニア号の乗組員がこの信号灯を視認したと言われているが、何故か救助には向かわなかった。遭難信号と認識して救助に駆けつけた場合は、沈没の約10分前に到着できていた。カ号の船長は、後々まで、最初の方に逃げ出したイズメイ氏と共に世論の批判を浴びた。
カ号船長00の取った行為は許し難いものである。事故後00で現場に到着しているが、結局生存者どころか1遺体も発見できず、ひっそりとボストンに入港した。その後の審判委員会でも嘘を繰り返した。この船長がその時、海の男として当然の行動をしていれば多くの人命が救われていたであろう。


10.救命ボートが1178名分しかなかった。

これは、有名な話である。俗にタイタニック号が不沈といわれ沈没事故を予想しなかったためと言われているが、実際には当時の北大西洋航路を航く客船は全員の救命ボートを積んでいなかったのが通例で、全ての救命ボートを合わせた定員はどの船も全乗客・乗員のほぼ30%前後であった。船は衝突しても数時間乃至数十時間浮いていることが出来、船が沈む前に、救助船に乗り移る手段と考えられていたためである。
タ号のこの処女航海は、シーズンオフであったこと、出航日が何度も変更になった等々で乗客・乗員合わせて2206名しか乗っていなかった。若し満杯の定員3547名であれば僅かその数33%であり、もっと悲惨なことになっていたのである。そして、しかも退船時その救命ボートに定員以下の人数しか乗っていなかった。折り畳み式救命ボート4艘を含め合計20艘の救命ボートが降ろされたが、最初の頃に降ろされた数艘のボートにはたった半分程の乗客しか乗っていなかったのである。
理由として、
1. 乗員による、救命ボートの充分な下架訓練がなされていなかった為に、乗員が定員一杯の65名を乗せて昇降装置が耐えられるか確信が持てなかった。(実際には事前検査が行われており十分な強度があった。)
2. 一部乗客は、沈没が不可避とはその時点で考えておらず、リスクを犯して救命ボートに乗るより船内に留まる方が安全だと思っていた。
3. 当初、一部の客(1等、2等客)にしか退船命令が出ていなかった。
4. 混乱の中でポート側の責任者が「女性、子供(8歳以下)優先せよ。」を「以外乗せるな。」と解釈していた。  


11.製造会社はトラブル続きの問題会社であった。
タイタニック号は、ホワイトスターライン社が当時ライバルのキューナード社に対抗して世界最高&最大の豪華客船を目指し1909年3月31日から建造が始まり、3年の歳月、15000人の人手1インチ(約2.5cm)の鋼鉄の外壁2000枚、約300万個のリベットを用いて完成し、1911年5月31日、姉妹船であるオリンピック号の処女航海の直前、北アイルランドの造船所で10万人もの観衆の下、進水式が、行われた。そして、1912年4月1日タイタニック号は試験航海に出た。

ホワイトスター社の事故の記録
1845年 ホワイトスター社設立
1864年4月4日 ロイヤル・スタンダード号、氷山に衝突。ひどい損傷を受けたが、何とか自力で港にたどり着く。
1873年3月20日 アトランティック号が悪天候のため座礁。船は沈没。1000名のうち、546名が死亡。
1893年 ナローニック号が行方不明になる。
1899年 ジャーマニック号沈没
1907年 スエヴィック号座礁
1909年 リパブリック号が他船と衝突、沈没。この事故では当時一般的で無かった無線が活躍し、救助も早く、死亡は数名にとどまった。
1911年6月21日 タイタニック号の姉妹船でほぼ同じ設計のオリンピック号が一足先に処女航海に出たが、いきなり、タグボートのハーレンベック号を巻き込み、沈没させかけた。この時の船長は、あのエドワード・J・スミス船長である。
1911年9月20日 サウサンプトン湾で、オリンピック号は巡洋艦ホークと衝突。オリンピック号はひどい損傷を受け、11月末まで正常航行は不可能となった。この時もスミス船長である。
1912年2月24日 復帰間も無いオリンピック号は、海上の障害物と衝突。スクリューの一つが脱落してしまった。この時点でオリンピック号は処女航海からの不祥事続きで無保険状態になってしまっていた。
1912年2月26日 オリンピック号の乗客の一人が海に転落して行方不明となる。
1912年4月10日 タイタニック号、サザンプトン港から2208名の乗客、乗組員を乗せ処女航海に出る。この時、あまりに大きいタイタニック号の余波を受けて、そばにいたニューヨーク号やテュートニック号が一時的に操舵不能となり、タイタニック号に衝突しかけている。(これが、先に述べた1時間の遅れに繋がる。)


V)<エピローグ>
午前2時20分についにタイタニック号は沈没した。最初の救助船であるカルパチア号が到着したのは午前4時10分頃であった。タイタニック時間午前0時25分、カルパチア時間午前0時35分、救助無線を受け取ると直ちに、釜が爆発するほどの石炭をたき、限界をものともしないスピードを挙げ最初に到着し,その的確な救助活動を指揮したアーサー・ヘンリー・ロストロン船長の名前と共に世界の人々の記憶に残るものとなった。

1)事故時の乗客・乗員数
乗客数:1331人 
乗員数:892人
乗員・乗客総数:2223人(概算)?
死亡者:1517人 
生存者:706人 
子供死亡総数:50人(うち一等乗客:1人 うち三等乗客:49人)

2)事故による生存率  

女性・子供   男性
一等船客  94% 31% 60%
二等船客 81% 10% 44%
三等船客 47% 14% 25%
乗務員   87% 22% 24%

3)衝突時のダメージについて
タイタニック号が沈没した1912年当時の事故調査委員会では、タイタニック号は船底に空いた長さ90mの亀裂が原因で沈んだという結論を出していたが、1985年にタイタニック号が発見されて以来の調査で、タイタニック号の沈没は、ほんの小さな5つの穴、(しかも其の幅は最大でも親指ほどの幅であった)が原因であることが判明した。
音波探知検査の結果、
1.船首部分に小さな穴一つ
2.第1貨物室に、1.5m〜3mの穴が2つ
3.続いて4〜5mの穴
4.10mの穴が第三貨物室あたり
5.第6ボイラー室あたりに、一番大きな穴
という、計5箇所の穴、合わせても1平方メートル程しかない亀裂面積でタイタニック号は沈没したのである。しかし、破損箇所は水深5m 程のところであり浸水は毎秒7トン(グッチが1秒間に70人)と言う凄まじいものであった。
これが4箇所の穴(4区画の破損)であればタイタニック号は浮いていたといわれている。

4)船上のバンド演奏について
沈み行くタ号の船上でバンドが演奏を続けた事は事実で今や伝説のようになっている。
バンドマスターのウォレス・ハートリー氏について:
彼は、バイオリニストで、タ号の前は、モルタニア号(キューナード汽船)に乗船していた(キューナード社は、ホワイトスターライン社のライバル会社。ちなみにタイタニック号の救助に駆けつけたカルパシア号もキューナード社)。タ号乗船前の1週間は、婚約者と共に過ごしたようである。
タ号の惨事の後、1912年5月4日、彼の遺体は発見され、故郷に運ばれ、大勢の参列者が見守る中、埋葬された。




■第9回 操船号令「スターボード」「ポート」について

海外に於ける操船号令は「スターボード」「ポート」だが、タイタニック号が遭難した1912年頃は、多くの国に於いて「スターボード」「ポート」の定義が日本の「面舵」「取舵」と同じ発想で舵柄の位置で決めていた為に、現在と逆で、混同しやすいものであった。

映画「タイタニック」確かめましたか?氷山を視認後、氷山に衝突する直前、航海士が「ハ−ド・ア・スタ−ボ−ド!!」(字幕では「左転舵!!」となっている。日本流に言うと「取舵いっぱい!!」だが、とてもややこしいので、前回の話しと併せてよく読んでいただきたい。現に、劇場公開時は「面舵いっぱい!!」と誤訳されていた。)と叫び、船を左舷に回頭したが避けきれず船首付近右舷側面に損傷を受け浸水し、沈没した。実は、不沈といわれた「タイタニック」には、致命的な欠陥があった。それは、隔壁(バルクヘッドですね)の上部が空いていたのである。一部に浸水があっても、隔壁により他への浸水は免れると考えられていた為である。しかし現実には複数の隔壁に亘り浸水があった為に船が前に傾き隔壁の上部から海水が溢れ次々に浸水していったのである。そのため、より船は傾き、船首から引き込まれるように最後はほぼ垂直に海に消えたといわれている。これ以降、隔壁は、完全に密閉されるようになった。また、氷山と衝突までに悪い偶然や人為的なミスが数多く重なった。姉妹船の事故(タイタニックと同じ船長だった。)で処女航海の出発日時が1ヵ月変更になったこと、出港直後にも近くの船と接触事故を起こしそうになり1時間出港が遅れたこと、広い大海原でまるで狙いを定めたかのように50マイルも前から真っ直ぐ進路上に大氷原があったこと。その為7度にわたり無線でタイタニックに対し大氷原の存在の警告がなされていたにも拘らず何故か進路を変えなかったこと(衝突した大氷山も動いていたであろうに…まるでロックオンされていたかのように)等、衝突することのほうが奇跡に近かったのであるが、まるで悪魔に吸い寄せられていく様に大氷山に突っ込んでいったのである。タイタニックの悲劇については語りつくすことが出来ない。

話が随分それたが話を元に戻そう。下図のように当時の操船号令は国により異なり、また他国に入港時にその国の水先案内人を使用する際等に混乱を来たし、非常に不便かつ危険なものであった。そこで1928年、ロンドンで開催された国際海運会議は、この問題をとりあげて結論を出し、この後、世界海運諸国は、いずれも間接法を廃して 直接法に踏み切ることになった。即ち「スタ−ボ−ド」は右舷回頭、「ポ−トサイド」は左舷へ回頭に変更され、1931年6月から実施された。このロンドン海運会議の結論に基づいて日本の海事法規も改訂された。操舵命令においては、「面舵」は「スターボード」とし、右舷へ回頭とし、「取舵」は「ポート」とし、左舷に回頭とした(海上衝突予防法)。即ち日本だけ舵柄の動きに合わせたままにしたのである。しかし、「面舵」「取舵」の由来である和式船磁石は逆針であったので、結果的に本来の方角と整合がとれたと言えばとれた事になる。ややこしいでしょう?これが一発で理解出来る方は相当頭の良い方か、あまり判ってない人ですね(ハハハ)。勿論、私も大いに混乱しました。後は自分で図を書いてお考えください。

 

着目

操舵命令

慣行国



直 接 法

(direct order)



船首

船首を starboard(右舷)の方向へ転回させるために"Starboard !"(右舷へ!)と命令し、また、船首を Port(左舷)の方向へ転回させるために、"Port !"(左舷へ)と命令する。




フランス



間 接 法
(indirect order)



舵柄

船首を starboard(右舷)の方向へ転回させるために"Port !"(左舷へ!)と命令し、また、船首を port(左舷)の方向へ転回させるために"Starboard!"(右舷へ!)と命令する。

イギリス、アメリカ合衆国、オーストリア、イタリー、日本、その他


■第8回 「おもかじ」「とりかじ」 

                

和船の操舵命令は、船首を左に向ける時は「取舵(とりかじ)」、右に向ける時は「面舵(おもかじ)」であるが、その根拠は船磁盤の十二支にある。前号で書いたとおり和磁石には「逆針」が使われ、船磁盤は子(北)の目盛りが船首になるように置いて使用する。こうすると右舵正横が酉(西)、左舵正横が卯(東)の目盛りとなり、右舷を酉の側・左舷を卯の側とした。従って舵柄(かじづか)を右へ動かすことを「酉ノ舵(とりのかじ)」、左へ動かすことを「卯面舵(うむかじ)」と称した。酉ノ舵が転化して酉舵すなわち「取舵」となり、卯面舵が「面舵」になったといわれている。日本海軍もこの「取舵」「面舵」を使い、東郷連合艦隊司令長官がバルティック艦隊の直前で「取舵いっぱい!!」とやった話は有名である。(私事ながら亡父から司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のこの場面を「血湧き肉踊る」と何度も聞かされたことが懐かしい…)当時もそうであったが、操舵に舵輪を使う現在、その回転方向は舵柄の動きと逆になるが、日本語の操舵号令として今も同様に使われている。普通は聞き間違えないよう「とりーかーじ」「おーもかーじ」という風に長く引くアクセントの位置で区別されているということであるが、これは、一度、奥田ハーバーマスターに確かめておこう。

次回は、海外における号船命令「ポート」「スターボード」について

第7回 船磁石(ふなじしゃく)


船磁盤(コンパス)は、GPS全盛の今日でも我々にとって、無くてはならないものである。僅か10年程前までは私も、速度計、水深計等無いまま、本海図、コンパスのみで瀬戸内海、紀伊水道を往来したものである。皆と到着時間を賭けた事等が懐かしく思い出される。その後、プロッター付ロランを装備した時はその利便さに驚いたものである。そして現在、GPS等で欲しい情報はほとんど手に入るが、矢張り、海図片手に(もう一方は勿論ビールであるが)、潮を識(し)り、ランドマーク読み、それに薀蓄を垂れ、講釈を加え航くことは愉しいものであり、日頃のストレスがキールを伝いアースされるのを感じる無上の時である。

さて今回はその船磁盤(コンパス)の話。

鉄を引き付ける石の存在は紀元前から知られていたが、その石、即ち磁石が方位を示す性質を持っていることが知られたのはもっと後のことであった。東洋では10世紀に入り磁石が登場する。その頃の東洋磁石は磁針を水に浮かせる水針式の物であった。日本には、鎌倉時代に入って磁石が到来した。その方式は中国流の水針で、船が揺れると水がこぼれる不便さがあった。そこで磁針をピンで支える独特の和磁石が発明され、中国に逆輸入された。この頃の西洋式は磁針ではなく磁石のついた羅牌(らはい)(コンパスカード)を回転させる方式で、羅牌に記された方位は度数ではなく北東南西の間を8等分した32点で標示されており、また羅牌を水平に支持する装置もあり目盛りの数が多い点は和磁石より優れていた。一方、和磁石の方位目盛りには十二支が使われ、北が子、東が卯、南が午、西が酉、また東南は辰巳、西北は戌亥などと呼んだ。南北線、即ち経度線を子午(しご)線というのはこの為である。(蛇足だが、姉妹クラブ淡輪YC主催のメインレース「メリディアンカップ」のメリディアンは子午線という意味である。)

船用の和磁石には、江戸時代に測量師金沢清左衛門の発明によって考案された逆針(さかばり)が使われ、目盛りが左回りに子、丑、寅…の順に刻まれていた。使用時には、子(北)の目盛りが船首になるように固定する。そうすれば、磁針は常に船首の向いている方位、即ちその船の進行方向を示すことになる。これは、当時、和船の航海に於いては陸上物標の方位を測定して位置を求めることよりも、どの方向へ何里走れば良いかということが基準になっていた為である。(図を参照して頂きたい。)北前船のような和船でも、当然、和磁石を用い航海していた。

次回は「おもかじ」と「とりかじ」の由来について。この和磁石の原理が理解できていないと次回のテーマは非常に混乱します。

第6回 「ポートとスターボード」
一端の船乗りを気取る我々は、右舷のことをスタボー、正確には、スターボードサイド(STARBOARD SIDE)と、左舷のことをポートと、これも正しくはポートサイド(PORT SIDE)と呼ぶ。これは、帆船時代の船の構造に由来する。スターボードは、14世紀以前の船は右舷側の後部に長い操舵用のオールがあった為、「ステア(操舵する)」が訛って生まれた言葉といわれる。舵のことを英語でステアリング(STEERING)で、ステアーボード(STEER-BOARD)。それが訛ってスターボードに変化したということらしい。ポートサイド(PORT SIDE)は、前述のように右舷船尾に舵があった為、それが傷つくことを恐れて常に船を左舷で着岸し、左舷から荷物や人を積み込んだらしく、いつの間にか港側(ポートサイド)と呼ばれるようになった。

この慣習は現在まで継承され、今もほとんどの船では左舷着岸している。また、多くの用語(キャプテン、クルー等)が船から受け継がれている飛行機においても同様で、旅客機もポートサイドに出入り口が設けられているのは承知の通りである。また、ポートサイドは十九世紀半ば迄、ラーボード(LARBOARD)とも呼ばれていた。これも、左舷側で荷物の積み降ろしをするのでレイドボード(LADEBOARD)と呼ばれ、それがラーボートになったとする説。あるいは外国からイギリスに帰港する船は、イギリス海峡を北上する際に左舷が本土側になることからランドボート(LANDBOARD)と呼ばれ、やがてラーボートになったとする説などがある。

このラーボートがスターボートとまぎらわしく操船号令の際に重大な事故につながる恐れがあった為、1844年、英国海軍が正式にポートサイドに統一した。この操船号令のスターボ−ド、ポートサイドについては、タイタニック号の遭難時の悲痛な転舵号令「ハード・ア・スタボ−!!」(映画「タイタニック」のビデオ等を持っている方は、再確認しては如何。スタボ−号令で左に転舵している。変でしょ、でも合っています。)や、ライト、レフトの号令が伝統的なスタボ−、ポートに勝てなかったこと、タイタニック遭難後、程無くして、全く操船命令が逆になったことなど、海好き、船好き人間の我々には、興味の尽きない話が山ほどあるが、長くなるのでまたの機会にしよう。

さて、日本でも同様に艪櫂船は右に艪があった為に荷降ろしは、左舷で行った。また、漁師は、右舷を荷降ろしする左舷に比べて重要視し、下世話であるが普通、右舷では小便をしないものである。本船乗りにおいても、スターボードサイドは神聖、重要なもので日本では神棚、外国では礼拝所などは全てスターボードサイドに設けられている。船長室も、勿論右側である。また、外国に入港する場合、儀礼上その国旗をスターボードサイドに掲揚し、ポートサイドには、乗員の国籍を表示する国旗を掲揚するのが慣例である。

ただ、私が愛してやまない豪華客船では、ファーストクラスは、船首にあるが、アッパークラスは、スターボードサイド、ポートサイド両側にあり、公平感を出す為であろうか寄港地によりポートとスタボーでの着岸を変えているようである。よってポートサイドとスターボードサイドで客室料金が変わることはない。但し、出港時、または自分のお気に入り寄航地で、どちらに停泊するかは事前に調べて部屋を予約しておくことである。因みに、カリブ海クルーズでは、出港時にマイアミの町を一望できるポートサイドが断然結構である。                   〈つづく〉

第5回 月の運行と潮流 Part2

月はその楕円軌道面が地球の赤道面と若干の角度を持っている。故地球から見る月は赤道面を跨いで上下動をして見える。又楕円を描いているために地球から近い時(近日点)遠いとき(遠日点)が生じる。そして公転のスピードは遠い時は遅く近い時は速い為(ロープなどを手に巻きつけるように回したときロープが短くなってきたら早く巻きついてくるのと同じ理屈である)同じ満月でも上下左右に首を振って見える。これを秤動という。(乱暴な言い方だが満月の時手を伸ばして満月を上下左右に動かしたようなものでこうすれば50%より多く月の表面が見られる)これがあるために地球から59%の面の月が見えるのである。地球と月との角度が、又距離が変わる事により秤動が起こり又、潮の高さ、潮流、速度が変わる。同じ大潮でも夫々違うのはこうした理由による。又太陽の高さ(太陽との距離)も当然夏と冬では違う。夏の大潮は冬の大潮より大きいのである。これは経験的に田舎の海の子は知っている。夏の潮干狩りは春にはとても行けなかったより海の深いところまで行ける事、春には平気だった磯が夏には水没する日がある事、春には渡れた川が夏には渡れない日がある事、自然は色々教えてくれたものである。

こうして月は地上のあらゆる物を規則正しく干渉している。それは人体も例外ではない。人体はその80%が水である。よって人体にも潮汐運動が起こっているのである。これを「バイオタイド理論」といい。これによると大潮時即ち満月新月時には人は緊張、昂奮し過激になる。満月,新月時犯罪が多いのは統計学上証明されている。又逆に上弦下弦時には緊張が緩み、交通事故が多いのも日本の警察による統計で証明されている。また月経サイクルは平均29.5日で朔望月と全く同じであるし、満月新月時に10%も多いといわれている。月は人のバイオリズムに大きな影響を与えているのである。他天体も程度は少ないといえ人体に潮汐現象を起こしていることも考えると星占いもあながち的外れとはいえないのである

◆上潮時人体は徐々に興奮してくるのである。反対に下げ潮時なんとなく意気消沈してくるのである。この上潮時は月でいうと上弦の月である。右斜め下半分が光っているこの月は徐々に満ちて行く月で縁起がいいとされている。時代劇に出てくる天下ごめんの向こう傷はみんなこれである。又時代劇の背景に在る三日月もまた必ず上弦の月である。家紋に使われてもいるがこれも上弦の月、私の知る限りでは、陰陽道(おんようどう)の太陽に対する月が下弦の月だったような気がするが…下弦の月について何か御教示いただければ幸いである

◆当然の事を承知で述べると月の光っている側に太陽がいるという事である夕方西の空に上がる三日月は今沈んだ太陽に照らされ右下側が光っているのであり、夕刻定時観測すると日ごと太陽と角度が付き正中しア・ビームから照らされ上弦の月になり、東の空で正反対から照らされ満月になるのである。天動説を借りると太陽は24時間で地球を回るのに対し月は24.8時間で地球を回る。即ち西に上がった月は毎日約50分づつ太陽と離れて行き満月になりそして近づいて太陽に重なり新月になる。潮汐表を見てみると満潮時、転流時、最強時等が毎日約50分づつずれているのが判る

◆ただ月の満ち欠けは南半球ではまったく逆になる。南半球のオーストラリアやニュージーランドに行く機会の多い我がクラブのメンバーは今度かの地に行ったら是非月を観測していただきたい。日本で南の空をかける月は、北の空を巡り下弦の月が満ちていく奇妙な体験が出来る筈である。みんなも良く知っているメルボルンのテッドが来た時伊勢神宮に連れて行って、早朝参拝に出かけた時、下弦の月が出ていて(なぜ早朝は下弦の月かもう判りますよね)日本では下弦の月は縁起が悪いと言われていると話をしたらオーストラリアでは逆だといわれ、その時初めてこの事の気付いたものである。

第4回 月の運行と潮流 Part1
ほぼ自転車の速さで海を航くヨットにとって潮流は強い味方であると同時に行く手を阻む難物でもある。特に明石、友が島両海峡に蔽護された大阪湾最奥部に舫う我々にとって、その恩恵に浴する故に湾外出時には彼らと相談が必要であり、又瀬戸内海クルージングおいては、彼らと航く航海は望外の彼方の島々へ我々を誘(いざな)う。月の運行を知り潮流を語ることはヨットマンにとって興味深く又楽しいものである

◆潮流は、潮の干満によって引き起こされる流れを言い、常に一定の方向で流れる風による海流とは別のものであるが、双方とも主たる太陽、月、風以外に他天体、地自転、気温、水温、気圧、風、地形、海水塩分濃度その他様々な要因に複雑に影響を受け,又影響を与える

◆月は地球から平均384,000Km離れた軌道上を楕円を描いて周回している。これは地球の直径の約30倍にしか過ぎない。意外と近いのである。それゆえ遠くはなれた太陽の2.5倍の引力で潮を引く。また他の天体、たとえば隣の金星,火星等もわずかではあるが潮を引く。そして月は潮だけでなく地殻をも引く。即ち月が廻るに連れて地球自体も歪む。又月が地球の潮、地殻を引くように地球も月の地殻を引く。お互い見えないロープで引きあっている。即ちこれが万有引力であり、この引き合いで月は地殻の歪により、地球の場合はそれに加えて潮と地殻の摩擦によりその自転にブレーキがかかる。その結果地球の場合100年間に1/1000秒づつ自転速度は遅くなってきている。対して月も自転速度が当然落ちて来たのである。そして悠久の時をかけ自転周期と公転周期が等しくなり,地殻の潮汐が起こらなくなり即ちブレーキがなくなり自転がこれ以上遅くならなくなった。そして自転エネルギーが無くなることにより公転エネルギーが増し一年間に3cmづつ地球から遠ざかりつつある。これが今の状態である

◆自転,公転周期が全く等しい事により月は同じ側を地球に見せているのである。地球からはこれ故月面の半分しか見る事は出来ない事になるが、現実には59%見ることが出来るのである。何故か?これは潮汐にも関係があるので後で触れたい。この自転公転周期が同じという例は他の惑星と衛星の間でも見られる現象である

◆ただ月は地球に対して片面のみを見せているが太陽に対しては回っているので約半月でその昼夜が変わり一ヶ月で同じ面を太陽に向ける。この一ヶ月は正確には29日12h44mで新月から新月の時間と同じで朔望月といい、これに対して月が地球の周りを一周する時間(公転時間)を恒星月といい27日7h43mである。なぜ二日余りも違うか?それは月が地球を回りながら太陽の周りをまわっているからである。紙面の都合で図解する事は出来ないが簡単な理屈なので興味のある方は是非図にしていただきたい

◆纏めると月が誕生したといわれる45億年前、地球の一日は短く、地球から見る月はもっと大きく、くるくる廻りながら、猛スピードで空を駈けていたのである。そしていつか月はだんだん小さくなり、満月の日が続き、低い満潮が何日も続き一日が何十時間となり昼は灼熱夜は極寒となり、やがて自転公転速度が等しくなり夜と昼の地域に分かれるという事が理論上ありうる。が、あくまで予想であり遠い未来を正確に予測するのは今のスーパーコンピューターでも不可能である。現に私が中学の頃習った天文学では水星の自転公転周期が同じで半分は灼熱、半分が極寒地獄でその間に黄昏ゾーンと呼ばれる地帯がありここは人類が住める可能性があると教えられたのもである。(1965年アメリカの観測チームによって否定された=自転周期の方が早い)天文学は男のロマンである。
第3回 天神祭り奉納ヨットレース

天神祭りも今年で第7回を迎える。このレースは姉妹クラブである徳島ヨットクラブの阿波踊りヨットレースのあのお祭りレースの完成度の高さホスピタリティに魅せられた我クラブがその向こうを張って完成させたものである。

このレース完成に奔走してくれたのが当時の広報部長中来田氏と中西氏である。まず天満宮の了解を得ることから始めた。時の権禰宜(ごんねぎ)であった岸本氏と相談し、名称は「天神祭り奉納ヨットレース」とする事。宮の紋である梅鉢の紋の使用を許可する事。レース前に天満宮に奉納し(奉納云々となっているのはこの為である)、安全祈願祭を行うこと。恒例的なものとし末長く続けること。宮から資金援助、スポンサーの紹介は出来ない事等々を条件に快諾を得た。これは天神さんが海に縁の神様である事、宮司の寺井さんがヨットレースに理解を示してくれた事が大きなバックアップと成った。寺井さんが後北港の空きバース抽選で第一籤を引き当て、めでたくヨットオーナーになり我クラブのメンバーとなったのは承知の通りである。

毎年レースの2週間前には天満宮に昇殿しレースを奉納し安全祈願を行っている。年一度のこの行事が私は殊のほか好きである。「たけなわ」にて事前告示されているので今年は参加されては如何であろう。但しクラブレベルの正装をお忘れなく。

こうして理事を中心とした方々の献身的な努力で大きなスポンサーも無く大阪湾に天神レースありと鳴り響く迄育ってきた。さらに夏の名物レースとして大きく育って欲しいと願って止まない。

ただ手作り手弁当の運営はそろそろ限界にきているのではないか。事前準備、運営、管理等一部のメンバーに負担がかかりすぎている。テントの運搬、設営、撤収も重労働、且危険である。そして深夜、表彰式後の荒片付け、翌早朝にはタバコの吸いがらまで腰を屈めて会場を清掃しているクラブ員がいる。一部でも外注出来る態勢にしたいものである。

第2回 ケイコの思い出
4年に一度のメルボルンー大阪ダブルハンドヨットレースはわがクラブにおいても一大イベントである。数々の思い出を残してゆく。中でも1995年第三回での話。

開催中、ハーバーにインフィニティーのクルーのケイコが来た。新聞でレース艇がフィニッシュラッシュ中である事を知り、暇つぶしに見に来たのだと言う。この日が、彼女の一生を変えた。
たまたまELLEに遊びに来ていた、1時間差で敗れた2位のCo-skipperブライアン・ピーターセンを彼女に紹介した。当時英会話を習い始めていたケイコは、度々ハーバーを訪れる様になった。なんか勘違いをはじめ出していたブライアンに安東氏が「お前に気があるんじゃ?」と嗾けたからたまらない。一ヶ月もの間、あのいかついエリオットと二人で狭いヨットの中で過ごし余程のレベル以外は皆美人状態であったブライアンは、いまや闘牛士の赤マントの前の牛と化した。その気になった彼は猛烈なアタックをかけ始めたのである。

世界のハーバーに彼女がいるとか、女癖が悪いとか、とかく前評判のよくなかった彼との交際を当然ながら私は反対し、兎に角この「メルー大阪」期間中におかしな事になったら今後ELLEはもとよりハーバーのへ出入も禁止するとまでケイコに言った。当然の事である。世界のヨット界は意外と狭いのである。当時会長であった私の艇のクルーでもあった女性がエントラントとおかしな事になると、大阪のヨットクラブのそして日本のヨットクラブの女性クルーはという事になるのである。人生全て塞翁が馬。ケイコは忠告を守りその貞淑さに感じ入ったブライアンは彼女とめでたく一年後に結婚したのである。

勿論それまでに何回かタックありジャイブもありB旗も上がりで、私も何回かジャッジもしたが、いまはNZのオークランドの近くでピーターセン牧場の奥さんとして幸せに暮らしている。昨夏は本当に可愛いブライアンにそっくりの一人娘の金髪のエマちゃん(私にすごくなついているんだなぁ)を連れてELLEに里帰りをしてくれた。

第1回 外国のヨットクラブの構成について
思いつくままに綴っていこう。
第一回は海外のヨットクラブ構成について。
まず会長、英語ではCommodore(提督=艦隊の司令官)。次に副会長(Vice-Commodore)、日本ではなじみ薄いが後会長(Rear-Commodore)と続き、会計、セーリング、クルージングキャプテン、そして直前会長となる。直前会長(Immediate-Past-Commodore)は中々の権威で現会長の相談役兼目付けみたいなものである。会長時、副会長には自分の信頼置ける人物を選び、会長に育てるのである。故後々とも、前後三代は仲良しなものである。クラブにより編成、名称は若干の違いはあるがこんなものである。
ヨットクラブ名も何々Squadron(小艦隊)とか大袈裟にFleet(大艦隊)と気取るところもあり、海軍用語が頻繁に使われ、紺のお揃いのブレザーを着てエンブレムをつけて悦に入っている。要するにクラブというのは子供の腕白の集まりの大人版なのである。
また、広報誌に会長、副会長の横に夫人の名を書いたりしてある。ヨットクラブに拘らず、正式な会では夫人同伴ということが当然で、亭主だけというのは信用されないし、まず見かけることはない。またヨットクラブの会長というのは、社会的地位も高く公的な会では市長クラスと同等である。
それだけに名誉なことなのであるが、雑務も多く週1〜2回の会合等は当然で、大体2年の任期であるが、任期中は会社がタックするとか、「会長の船はどれ?」「ハーバーの中で一番牡蠣がびっしりついている船だよ」とかいう笑い話も多々ある。
だが会長経験者だけの会などいうのもありあくまでSnobなのである。どこのクラブでも入会審査は厳しくみな自分のヨットクラブに又そのメンバーであることに誇りを持っている。
入会者を募るわがクラブとはいささかの違いがある。OHYCもより魅力的なクラブにしたいものである。ハーバーでの週末は良い意味での特権意識を持って、それなりの立ち居振舞いをしたいものである。「外相整えれば内相自ら熟す」である、ぶってりゃ何とかその内格好になるものだ。


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